なぜ、人は「なぜ?」と聞かれると気になるのか?

なぜ、あなたは気になるのか?なぜ「なぜ」と付くタイトルが多いのか?

なぜ、部下に「なぜ?(どうして?なんで?)」と言ってはダメなのか?

なぜ「なぜ~?」と相手に質問をしてはいけないのか?

この疑問を紐解くことで「結果を変える」ことができるようになった。


「なぜ?」質問の力

なぜ?のなぜ?という疑問に、ここでは答えていこう。

なぜ、質問に力があるのか?

先に結論からいえば、質問にはパワーがあるからだといえる。

パワー(力)とはエネルギーのことである。

エネルギーとは言い換えると”「仕事をしている状態」といったような意味である。 ~眼には見えない「活力」が具体的な「仕事」に変化した ”ということ。

わかりやすくするために砕けた表現を用いるなら、「質問を投げかけることで脳が動き出す」といってみてもいいだろう。

つまり、脳には自動的に回答を求める機能が備わっているため、書籍やサイトなどのキャッチコピーでよく使われるということになる。とはいえ「なぜ~」というタイトルの内容に限って薄いような気になるのは、答えを探す潜在意識の性質により、ハードルが上がってしまうからかもしれない。だからこそ、ここではあえて挑戦の意味をこめて「なぜ?」というタイトルを付けていくことにした。

ちなみに実験内容は定かではないが、NLPでは脳は質問を受けると、毎秒A4用紙30ページ分を検索し、答えを探そうとすつ機能があるらしい。どちらにしても「それほどの力が質問にはある」いった意味での例え話としては、分かりやすいといえるだろう。

質問の力の正しい使い方と間違った使い方

質問は原因を掘り下げるために、かなり有効な策だといえる。つまり裏を返せば、結果を変えたければ、質問を変える必要があるということになるだろう。

この詳細は後で述べるとして、先に質問の間違った使い方を添えておこう。

タイトルにもあるように、部下や相手に対し「なぜ?なぜ?」と掘り下げていくと、最終的には相手自身だから(あなただから)という答えに行き着いてしまうため意味がなくなってしまう。

もしライバルを蹴落とすため、ライバルを出来ない相手に変えたかったら、少しのミスを指摘して「なぜ、出来なかったのか?」と質問を連発すれば効果が出てくるのかもしれない。とはいえライバルは自身の投影とも関係あるので、そのような質問をする可能性は低いといえるだろう。なぜなら、自分自身をおとしめてしまうことにも繋がるからだ。

ともあれ、部下や親しい人へミスした時にこの質問を投げかけるのは、ご法度だということは言うまでもない。

もちろん脳には、その反面「質問して欲しい」という欲求も備わっている。「クイズ番組の答えが気になって、つい観てしまう」という傾向もそうだといえるだろう。

これは「問題を解決しなければ生き延びられない」といった、脳の本能的欲求がそうさせているのかもしれない。

それでは次に、質問の使い方で間違った使い方をしてはいけない理由を添えておこう。

先程、相手に「なんで?なんで?」と追求していったとしても、原因は最終的に相手自身に行き着くことをそえた。これは「なぜ私は私なのか?」と同じく「なぜあなたはあなたなのか?」といったように疑似問題といったパラドックスとなりかねない。

しかも(実際に実験があったかどうかは定かではないが)潜在意識では回答を寝ても覚めても無意識で探し続けるといった説もある。

これが本当だとすると、答えのない答えを探し続けることを、永遠に繰り返えしてしまいかねない。嘘つきパラドックス のように無限連鎖する可能性が生じるわけだ。

そしてこれは何も、相手への質問の問いかけだけで発生するものではない。

自分自身への問いかけは、更に注意が必要となるだろう。

例えば「なぜ、私は間違っているのか?⇒間違っているという前提での質問となり、逆も含め、この質問が真なら答えは偽となるため」「なぜ、私は自信がないのか?⇒自信がなければ言えないので」とこのように、ただ永遠にループするだけ、となってしまいかねない。

この恐ろしさを知ってか知らずか、あるいは利用しているのか分からないが、宗教では「私は間違っているのではないか?」と自問自答させるような傾向が高いといえよう。

なぜ、質問の力で結果が変えられるのか?

質問の力を有効活用するには、原因を知るために使用すること。

「原因を知ることで、結果は変えられる」その可能性を大幅に上げられるようになるからだ。

求める結果が出る可能性を確実に上げていきたければ、実験のように結果を見つめた後、「なぜ、そうなったのか?」といった要因となる原因を突き止めつ必要がある。

もちろん心の微妙な変化は当てに出来ないため、自分や周りの人間の心境をメインにしない方が賢明だといえる。環境や状況などの原因も考えていく必要が出てくる。

その後、原因を変えることで、結果を変えていけるようになるだろう。

とはいったものの、いきなり「こうすれば、こうなる」といった原因結果の繋がりが見えてくることはないため、微調整をしながら、検証を繰り返していく必要はある、というのは言うまでもない。

なぜ「検索」という質問が重要なのか?

あなたは、ここ最近食べた食事を何日前まで思い出せるだろうか?

おそらく、頑張って3日前くらいまでだろう。

それと同じく次に「検索キーワード」を思い出してみてほしい。何回前までの検索キーワードを思い出せるだろうか?

この検索キーワードは、自分が分からない、知らないことを調べるので、ある意味において、質問と同じである。

であるならば、どんなキーワード(言葉)で検索するのか?その言葉を意識していくだけで、結果がかなり違ってくる可能性が上がるといえるだろう。例えば、何かの購入を迷っている時、肯定的なキーワードで調べるのか?それとも否定的なキーワードで調べるのか?その違いだけで、脳内ではフィルタリングが自動的に施され、検索結果を見る前に結果が決まっているといってみても過言ではない。

これは情報リテラシーの精度を上げるためというよりも、質問の力を確認し活かすための話となる。

そう、検索する前に、既に答えは出ているということだ。

結果を変えたければ、検索の内容を変える必要がある。それが出来ないのであれば、検索自体を控えた方が賢明だといえるだろう。


エピローグ

「なぜ、自分は生まれてきたのか?」「自分は何者なのか?」「なぜ、自分は生きているのか?」

この質問に共通する答えは「意味はない」ということになる。このように、意味はないと聞くと、思わず虚無感に襲われ反発しそうになるかもしれない。

この理由で、承認欲求が生じるともいえるだろう。

人間はその脳力の高さ故に、意味はないからこそ、意味付けをしなければ生きていけない、価値を見いだしていくしかないという反面も持ち合わせているからだ。

ここで、承認を満たせるための意味付けを、他者に委ねていくとどうなるのだろうか?

ややもすれば、誰かのせいにしなければ、生きていけないようになってしまうかもしれない。

好きなように意味付けといったタグ付けをしていくためにも、自己承認していく必要が出てくる。そのためには満足感を得なければならない。満足感を得るためには、他と比較することを辞めることが手っ取り早いといえるだろう。

滅亡を防ぐためには、競争に打ち勝つ力も必要だ。それ以上に「自己責任感」と「もっと楽に考える」という思考パターンを同時に持つようにしよう。

そのためにも「何も考えず考える」といった、一見矛盾しているように思える思考パターンになるには、「三位一体の革命」が必要だと考えている次第だ。

飽くなき探究と挑戦は、まだまだこれからも続いていく…

※「三位一体の革命」は準備中です