批判する心-その心理と脳

全てを疑え!」と私は言う。そこには批判する自分自身があった。人生の99%は思い込みであり、思い込みをコントロールする必要がある。そのためには「疑う勇気」が必要だといえるだろう。

たしかに生きていく上で、希望は必要である。そのためにもポジティブという肯定的思考は保たなければならない。だからといって批判する心を抑止する必要はない。むしろ大いに有効活用していくべきだといえるだろう。

では「批判する心」とは何なのだろうか?その場その場の理由ではなく、ここでは心理と脳の機能を踏まえて、この批判する心という謎に迫っていきたい。

批判する心

その要因には様々な理由があるのだろう。とはいえ、他者を批判する自分を好ましいとは思えなかった。心苦しささえ覚えていた。だからこそ、肯定的に物事を考え、信じるそして信念を持つ大切さを知る。逆説的だが、そのためには批判する心こそが必要なのかもしれない。

懐疑心が、信念をより強固なものにしてくれる可能性は大だからだ。

小さな正義

「正義感から社会に害を及ぼす可能性がある人に物申す」

これは社会を守るためという建前なのか?それが引いては自分自身のためにもつながるからなのか?

例えば、騙された自分自身がそこにいたとして、自分以外が騙されることがないよう、被害者をこれ以上増やさないよう、他の人へ忠告することで、その行為が救うという事につながると思い込むことで正義感を持つ。

気づく人は気づく、気づかない人は気づかない、それでいい。その情報により気づく人が1人でもいれば…

私は比較的正義感が強いほうなのかもしれない。メンターから「第三者のふりをするべきではない。見て見ぬ振りをして何もしないのは、同じ罪」だと教えられてきたことも影響し、つい頭で考えるより先に、身体が反応してしまう傾向にあった。

しかし「それで本当に意味があるのだろうか?」と自分自身へ問いかけた。

結局のところ、小さな正義を振りかざし批判をするほど、その考えを持つ人の信念は強化される結果につながってしまう。このような認知的不協和を調整する行為が生じることが、研究で証明されている。

なにより私はそんなに偉くはないし、例え行動に移したとしても、自他含めそのような状況を、何度も目のあたりにしてきた。それに加え、脳はいい加減であり、根拠のない不思議なことに興味をわく性質がある。このようにあやふやである脳で、正義を論ずる根拠を証明するのは簡単ではないし、時代や状況によっても様々に変化する。

というよりも、その性質があるからこそ、絶滅せず進化を続けてこれたともいえるだろう。それが分かっていたとしても、同時に自我を保つためには、何かを信じる必要が生じる。批判される側は、自分自身を失ってしまう感覚に陥るため、批判されるほど頑なに守ろうとする傾向も、状況によっては生まれてしまう。

しかもこの理由で、争いを避けるためにも、匿名でない限り相手に直接批判を投げかけることは、そこまで多くはないといえるだろう。「何かを見て、心の中でぶつぶつ批判を呟いている」この状況は日常で少なくはないといえる。とこのように、冷静に考えてみると、批判は意味がない場合も多いように感じる。

たしかに脳にはミラーニューロンという神経細胞の性質もあり、批判している人をみて、つい批判してしまう習性が備わっている点も否めない。

しかも、正しいことを行っていると思えば思うほど、ダイエットのリバウンドと同じように、モラルライセンシング効果により、少しくらい悪いことをしてもいいだろうと思うようになる可能性もある。

ではなぜ、その事に気づいても、それでも批判してしまうのか?

その謎を、探求してみたくなった。

騙し合いの進化で勝ち残る

人は信じられない誰か(何か)にコントロールされたくない。なぜなら自我を失う可能性が上がることで、自分が無くなる気がするからだ。たしかに指示に従うことは楽かもしれないが「それでも自分自身で選択した」という自意識は残しておきたいと思うだろう。この理由で、自分以外のものにコントロールされたくない。そのためには、自分自身を守らなければならない。

もっといえば「殺されたくない、死にたくない」このような感覚が生じる。

原始社会では、今日生き残るために獲物を取る、そして自分を脅かすものから身を守るためには「やるか(戦うか)?逃げるか?」の選択で済んでいた。

複雑になった社会では、そう単純にはいかない。

あえて単純化するならば、騙す人間がいて、騙されたくない人間がいるとする。

騙されたくない人間は、騙されないようあらゆる手段を使い身を守ろうとする。それを見た騙す人間は、更に巧妙な手口を使い騙そうとする。すると、更に騙されないように見抜く力を養い、更に巧妙に、更に見抜く力…と、駆け引きを競い合うことで、進化したという社会脳仮説も、まんざら嘘ではないのかもしれない。

「(逆も含め)頭が悪いフリをして騙す」といった手法も、駆け引きで生き残る手口の1つだといえなくもないだろう。

※私の師が「口のうまいやつに気をつけなさい。行動をみて判断しなさい」とわれていたことを思い出す。

その中で、現代人の1日に触れる情報量は、江戸時代の1年分と云われているらしい。このような複雑に絡みあった社会の中で、人が求めるもの、それは「自動化」だといえるだろう。情報過多に加え、脳は常に楽をしたいと楽を求めてサーチしている性質があることが、更に拍車をかけている。

それを求めていった結果、どうなったのか?

技術は人の求め(欲求)に応じて発展していく。その結果「技術は進化し、人間は退化」した。自動化は人間の思考までも奪っていった。

検索すれば何でも教えてくれる時代。ソクラテスも「無知は罪」だといっていたようだし、知らなければ見えない(考えられない)ように、恐怖は無知から生まれるので、これはこれで素晴らしいことだ。

ただ、その反動として思考の力も奪ってしまった。

ソクラテスの言葉は「無知は罪なり、知は空虚なり、英知持つもの英雄なり」と続く。

何も知らないことを知った後(無知の知)、検索をして知った。それで終わりではなく、それが始まりだったのだ。それで終わりなら、結局、何も知らないことに等しいとなりかねない。

話を元に戻そう。

シンプルにいえば「考える力は奪われたが、生命を守る本能は残っている」ということになる。本能という意味では、もしかすると脳内では、情報を取りに行くという行為は、狩りに行くという行為に等しいのかもしれない。

※余談:私はここを「農耕サイト」の位置づけとして、原点回帰の意味ではじめた。

分かりやすくするため流れをまとめると「無知の恐怖から身を守るために情報を搾取しにいった、とはいえ、身を守るためには信じるわけにはいかないので、疑ってかかる必要がある」といった具合になるだろう。

疑う=批判

これを、あくまでも「身を守るため」といった本能を前提として使用していくと、危険性が増してしまう。これが、社会的責任から生じたものだと尚更だといえる。この理由は集団的思考になった瞬間に、リンゲルマン効果のように責任感が薄らいでしまうからかもしれない。一致団結といったポリシーを掲げた集団だと、責任感の希薄さは最小限で済むだろうが、それはそれで個が拡大されたに過ぎないともいえる。そしてこれが、ルールなき混沌とした場となると、見てはいられない状況になることもあると思う。

このことで「身を守るため」という前提は、余程のことがないかぎり、設定しないにこしたことがないことが分かった。

そこで「前提は全く設定しない」という選択肢も出てくる。

前提を設定した途端、その疑いはカテゴライズされたものとなるので、身を守るにしろ、他のことにしろ、何も前提がないにこしたことはない。とはいえ、ごく当たり前のこととして、生きているという前提で考えていかなければならない限り、前提は必要となる。

では「身を守る」という前提ではなく、何を前提として疑い批判すればいいのだろうか?

批判的思考(クリティカル・シンキング)の前提

疑うこと、批判することといった、批判的思考(クリティカル・シンキング)は、物事を掘り下げて理解していくためにも、必要不可欠となる。

ただこれは、決してあら捜しということではないし、何か(誰か)を攻撃されるために用いるべきではない。という点は冷静に考えると理解できる。

ただついつい、人は感情と自我が備わっているので、日常生活の中で、つい何も考えず批判をしてしまうことも否めない。それが良いことなのか?悪いことなのか?という善悪の基準で判断すること事態、批判になってしまう。

裁くことなかれ」とあるように、裏を返せば、人は裁いてしまいがちだということは、身にしみている。

では、なぜ、批判しがちになるのだろうか?批判しなくても、判断できることはないだろうか?と問いかけてみる。

その質問自体が、脳ヘ「1つの問題」としてのしかかってくる。

つまりこのことで分かった事は、脳に負荷がかかるという意味であり「何も考えず批判するということが、自己肯定や自己承認するために、手っ取り早いからではないのか」ということにだった。正しいと間違い(善と悪)の2択で判断できるからだ。これは冒頭で添えた「戦うまたは逃げる」の2択という原始脳(爬虫類脳)で判断されるので、結論ができるのが早いことも理由の1つだといえるだろう。

もちろん非常事態になれば考える時間はないので、その選択が正しい間違いに関わらず、2択で済ませる必要性がある。とはいえ現代の日本において、そのような非常事態は滅多に起きない。車の運転のように、注意しておくだけでいいだろう。気をつけなければならないことは「忙しい=非常事態」となってしまわないようにすること。忙しいという事態、これは余裕がないという共通点が同じであるだけで、非常事態とは限らないのだから。

話を元に戻そう。

この「なぜ?」という問いかけや、「もし○○だったら、どうなっていたのだろう?」という疑問は、AI(人工知能)にとっては、とても難しいらしい。これ自体いつ出来るようになるかは分からないが、高度な機能を有する必要があることは間違いなさそうだ。

例えばうちで飼っている猫ちゃんも、右と左の分かれ道があって選択に迫られた時、過去の体験を含めた情報を頼りに探すだろう。AIはこの情報量が半端ないので、優秀にみられがちだ。とはいえ、見方を変えると猫ちゃんがパワーアップしたに過ぎないともいえるわけだ。

そう。猫ちゃんは決して「あの時、右が危険だった。でももしかすると、あの時だけだったかもしれない。そうすると、今日は大丈夫かもしれない。」とは考えないのだから。

AI(人工知能)に話を戻すと、ロボットには「もっとうまくやるべきだった。」「もしかするとこうかも」など、因果関係を推理して修正できない。

例えば間違った意見を言っている人をみて「もしかすると、今日は奥さんと喧嘩でもしたんだろうか。それとも上司に怒られたのかもしれない」といったバックグラウンドは検討にいれず、結果だけみて判断してしまうようになる。


まとめ

これらの内容は、まだ途中の段階なので、あくまでも現時点の段階でまとめておくことにする。

「罪を憎んで人を憎まず」と孔子の言葉や聖書の中にもある。大前提として、罪自体が、基準が必要になるので、一概にはいえない。

それを踏まえた上で、批判や疑いは、自分自身へ向けて「これでいいのだろうか?」と改善を促し成長させていくために有効活用するべきだといえる。これは「安易に自分自身を守り、肯定させていくために使用するべきではない」という意味も含む。

なぜなら本能という感情部分だけで判断し、批判や疑いを持ってしまうと、その対象がたとえ自分自身だったとしても、「私は間違っている。」「それはおかしい」だけで終わってしまいかねない。あるいはその言葉自体を肯定させるために「なぜ、間違っているのか?」「なぜ、おかしいのか?」の目的がズレてしまい、自分自身の判断の肯定材料を探すことで終始してしまう可能性も否めないからだ。

あくまでも「この判断自体が間違っているのではないか」という、モヤモヤ感を残しておくこと。そのモヤモヤ感をスキッとさせるために、直ぐに回答を得られたとしても、それで終わらせず、あらゆる角度から検証していく作業が必要だと感じた。

これは言い換えるなら、目の前にクイズがあり「なぜ、クイズに正解しなければいけないのか?」「もしかすると、しなくてもいいのではないのか?」「正解自体が間違っている可能性はないのか?」「最大公約数的回答として考えてみるだけでいいのではないか?」と考えるようなものだ。

ということで、ひとくくりにすると、脳は面倒な作業は嫌いだ。その面倒な作業を避けないことで、成長を促していけるようになるだろう。もしこの作業が面倒な時には、安易な批判に脳を使用せず、休息を取った方が賢明だという結論になった。

そして、これらの思考の作業という土台が、ある一定の地点に達した時、「直感」という自分にとって最適な答えが得られるようになるのかもしれない。

その直感はバカにはできない。違和感を感じた時は距離をおくことも必要となるだろう。「反論しないと認めたことになる」といった報復処理は、まさに感情部分を起点として論理を展開している可能性が高いため、結局のところ何の意味ももたず自己満足として終わる場合も多い。

自己満足で終わるならそれはそれで結構なことだが、場合によってはそれで終わらず、問題が飛び火し拡大してしまう可能性すら含んでいる。もしかするとこの公式を利用した手法が、炎上マーケティングと呼ばれるものなのかもしれない。あえて批判をしやすい極端な論理を掲げ「注目を集めれば勝ち(価値)」という文化が形成されてしまうことで、結局は自分自身に返ってきてしまうことになるだろう。

ストレス解消法は、別の方法がいくつもある

反論し、それで満足であればそれでも何も問題はないのだが、それに対しては批判さえも生じない可能性が高まるため(更なる反撃に合いたくないため)、裸の王様になる可能性も否めない。

そうならないためにも、建設的で有意義な論議は「基本一対一が最適」だと考えるのは、私の自論に過ぎない。なぜなら、互いの関係性、立場や状況で変化するものだから。

それでも、真剣に向き合える可能性は残されていると信じたい。

批判や疑問に真っ向から立ち向かっているといえば、研究者が思い起こされる。その研究者が研究室に籠もりきりで、社会に役立っているものを作り出せるという事は、周知の事実だといえる。

そういえば、”研究発表するということは、自分を「ヴァルネラブルな立場(脆弱な立場)」におく行為である、それがセンセーショナルでであればあるほど、他者から「批判」が次々と加えられる。”

~「人を批判すること、されること考」より

という言葉があった。

もしかすると「批判に関して凄い人」とは、表に出ず、淡々と疑問と批判に向き合って解決策を探して検証を繰り返している人なのかもしれない。

そんな暇はない」と…

エピローグ

将来的には「全ての人が正しい」という世界を望んでいる。

これには秩序が必要であり、現代ではそれを法機関が裁いていることになる。それでも、法の網の目をくぐり抜けるある意味において、ずる賢いと思われるような人間が得する世界では意味がない。

ずる賢い人も、ずる賢くない人も、皆全てが正しく生きていける世界。

これはまだ理解されないと思うが、最終的には究極的に分散化された世界を意味していると思われる。

それは、人が人へ危害を加える可能性を最小限にまで留めた世界であり、それを許容できる関係でしかつながらない世界である。

おそらく、何を言っているのか分からないと思う。

なぜなら、私自身がまだ思考実験の段階であり構築中であるから、理解していないからに他ならない。加えて今ある技術と環境そして分かっている法則で考えていかなければならないので、簡単ではないといえる。

その意味でも、ここで整理していく必要があると思えた。この理由は、研究室に籠もるようにヒッソリと行いつつも、刺激が必要だからだ。

プロジェクトは、現在もなお進行中である。

”空想は知識より重要である。 知識には限界があるが、. 想像力は世界を包み込む。 アインシュタイン”